令和2年も6月に入りました。
各地で小中学校や高校の登校が段階的に再開され、
プロ野球の開幕も視界に入り…
見覚えのある日常がまた戻ってきてくれることへの期待
そんな空気が漂う一方で
きっと無事にコロナが終息したあとも
このまま元に戻るのとは何処か違う
何か新しい一線を今、わたし達は越えつつあるような
そんな漠然とした予感めいたものを
こころの片隅に感じている人も
少なからずおられるのではないでしょうか。
今のそんな空気を感じながら
自分の心のなかにある言葉にならない囁きを
なんとか言葉にならないかと探っているときに
リルケが19世紀の終わり、
20世紀へのわかれ目に詠んだ以下の詩が
記憶の奥から蘇ってきました。
ひとつの世紀が過ぎようとする、わかれ目に私は生きる。
おおきなページがめくられる、その風を感ずる、
神ときみとわたしが、書きしるし、
みしらぬ手のなかで、たかだかとひるがえるページの風を。
あたらしい紙面のかがやきが射す、
まだ、そのうえで、どんなことでも起こっていい。
無言のちからのそれぞれが、たがいに拡がりをさぐりあい、
ほのぐらくみつめあっている。
リルケ 時禱詩集 I.修道生活の書(生野幸吉訳)より
20年前の、21世紀への変わり目のときには
正直あまりピンとこなかったのですが、
今となって漸く、この詩の綴る言葉のひとつひとつが、
新鮮なリアリティーをもって迫ってくるのを感じています。
これから私たちが何処に向かうのか?
「あたらしい紙面」に記される物語はいったい
どんなストーリーを描くのか
めくられるページの風を感じながら
考える今日この頃です。
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